chaloite-2
星クジラと花クジラの交流は開拓期末期から始まる。やっとクジラの背を端まで歩けるようになった頃、二つの大陸が目視出来る距離に近づいたことがあったのだ。とは言え動く土地同士で意思疎通をすることは容易ではない。海に船を出しても記録に残っている大半は予想以上の長旅で食糧不足や精神疲労によって船員が衰弱したとされる。天候が荒れて船が壊れそのまま沈没したり、運が悪ければクジラに襲われてしまったらしい。海はクジラの住処であり、それは聖域と同意義でもあった。それはそれは恐ろしい場所だったのだ。すなわち人々や文化が行き来しやすくなったのは本当に技術が進歩してからのことになる。今はまだ、大陸毎の細かい情報というのはなかなか広まりづらい。
つまりどういうことなのか、碧光の森は立ち入り禁止の塀が建っていたことをアイトは知らなかった。立ち入り禁止と言っても森に入れないわけではなく、強い魔力が土地に影響している奥のほうへの進入を禁止されているのだ。ライチから警告がなかったあたりここ数日の話なのだろう。誰も悪くないが、出鼻を挫かれた気分である。
ルドベキアの住人が言うには、花クジラも例外なく襲撃を受けてはいるのだが碧光の森に被害が集中しているらしい。森自体は魔力で復活するので復興の手間はいらない。そうでなくとも人の手を加えることを住人はあまり好まない。しかし復活した森に以前と同じ道や目印がある可能性は限りなく低く、防衛本能が研ぎ澄まされて攻撃的になっていることだろう。そして森にいるときに襲撃の近くにいたならば、状況は悲惨なものになると容易に想像出来る。
(森は繋がっているしここからじゃなくても奥には行ける、でも回り込んでドリアドまでとなると、予定以上に時間がかかるな)
青い木漏れ日を浴びながらアイトは考え込んでいた。塀は高く聳え、僅かに森の力を借りているのか弱い衝撃は跳ね返してしまう。多少魔法の心得はあるものの、塀を壊して突破するのは出来れば遠慮したい。それに、崩れれば大きな音を立ててしまいすぐに気付かれてしまうだろう。縄に掛けられるのだけは勘弁だ。造った権力者に交渉するしかないだろうか。苦手だ。アイトの眉間に皺が寄る。
しかしその時、目の前の塀に植物が芽吹き始めた。左端のほうだけだが、若い色をした蔦が精一杯に広がろうとしていた。一体なにが起こったのかと物陰に隠れ警戒しつつ蔦がやってきたほうに目を向ければ、少女が立っていた。緑の髪を飾る鮮やかな花と太陽に愛された黒い肌。フララーと呼ばれる、花クジラに住むハイエルフの種族だ。フララーは花の魔力を扱うことに最も長けていて、クジラとの繋がりも一番強いのではとも議論されている。あの少女が塀の木から苔や蔓を生やしある程度まで広げたのだとアイトは直感する。
「うん、これで森に入れるね!あともうちょっとよ」
肩から提げている鞄の中に向かって少女は言葉をかけていた。恐らくあの中には森に住んでいた動物でもいるのだろう。どういう事情かは憶測するしかないが彼女は動物を保護して、そして自然に帰しに来たのだ。優しい少女は絡み合った植物に手をかけ、足をかけ、塀を登っていく。そして向こうに渡してあった蔦を使って降りるなり、森の奥へ消えていった。草を踏む足音が遠くなっていく。その場には蔓延った緑とアイトだけが残っている。少女はもう暫く戻ってくることは無いだろう。恐る恐る蔦の中心へ近づいた。蔓や苔が複雑に重なって、梯子のようになっている。強度も、アイトが上っても大丈夫そうだ。これは使ってもいいんじゃないか。素早く上りきり、アイトは森の奥へ入ることが出来た。
頭の隅で少女に感謝をしながら、再度森の奥を注意深く見つめる。深く湿っぽい、太陽の見えない鬱蒼とした区域。植物が魔力を蓄え自ら碧光を放つ、魔法の森。碧光の森。少し足を踏み入れてしまえばもう道は無かった、太い根が地面を守るように這っていて、とても歩き辛い。むせ返るような冷たい匂いに思わず息を吐き出してから、アイトは慎重に先に進んでいった。
憎悪。なんて忌々しい植物たち、大いなる花の力。その町の者は全員フララーを憎んでいる。のうのうと生きているのが妬ましい。こんなにも我々の生命を脅かしておいて、あれが勝者の権利だというのか。自身の半分は既に感覚が無かった、甘い香りが漂って嫌な気分だ。それでもこの体で大剣を振るわねばなるまい。意識を失うわけには行かないのだ。故郷のために。故郷で眠り、目覚めない恋人のために。その目が捉えたのは野うさぎに手を振ったばかりの少女だった。
身を震わせるほどの破壊音と甲高い悲鳴は存外アイトの近くで聞こえた。彼の脳裏に先程の少女が過ぎる。想像していた内の最悪の事態だ。同時に、予想外に最悪な事態だ。他人が巻き込まれているなんて。それでも構わずに仕事を遂行するほど彼は人嫌いでもなく、茂みを薙ぎ払いその場へ駆けつけた。襲撃の話を今一度思い出す、跡にはなにも無かったそうだと。突然穏やかな光が視界から失われる。
太陽ミラの日差しがひしゃげた木々を照らしていた。折れたばかりの幹に隠れるように少女が蹲っていた。硬い樹木についた傷を隠すように新芽が顔を出し、既に再生が始まろうとしていたものの、それを阻止するかのように風が強く吹いた。燃えるように暑い風だ。いくら花クジラとは言えこんな灼熱が森の中で自然発生するとは思えない。
これは魔法だ。アイトは、悪意のあるほうへ顔を向ける。黒い鎧を纏った騎士が立っていた。距離はまだ遠い。幸いこちらにはまだ気付いていない上に攻撃を受けた森が騎士を邪魔するように伸び始めた。隙を突いて少女の元に行けばいい、その後はこちらも目晦ましの魔法を使えば逃げれるかもしれない。騎士が破壊した範囲は広いが遠くに行くにつれて威力が弱まっているようだった。
迷っている暇はない、アイトは駆け出し息を潜めて動けないままの少女の傍へ行く。当然、見ず知らずの人間に声をかけられた少女は困惑を瞳に浮かべたが
「走れるか」
そう、問いながら手を差し出せば、まっすぐにアイトを見つめしっかりと頷いた。少女が手を握り返したと同時にスティレットの四本目をベルトから抜いて素早く呪文を唱える。これは星の呪文の効果を高質にするための、儀式のための剣である。残る五本目、六本目、七本目も同じ用途だ。近距離の際に使わないことも無いがどちらかと言えば魔力を高める用途で使うことが多い。
さて、その呪文は、辺りに星雲を呼び込んだ。煌びやかな煙幕が黒い騎士を覆い隠しその視界を覆うことだろう。ついでに星の囁きが耳をくすぐり、子供なんかはすぐに眠たくなってしまう。そんな魔法だったのだが。
「あ、あれ!"ラクテウス・オルビス"よね?!うわあ始めて見た、確か星の小さな魔素を風を使って広げさせてるのよね?!」
「……」
「催眠効果があるって教科書には書いてあったけど、あんな使い方も出来るのね!凄いわ!!」
「……おい」
「なにかしら!」
「少し静かにしてくれ」
「あ、そうね、追ってきたら困るものね」
少女は小さくごめんなさいと口にしたが、それでも一連の出来事に様々な思いを隠せずにいるようだった。握った手から興奮の熱が伝わってくる。教科書、と言っていたが、もしかして魔法学校の生徒なのだろうか?アイトは冷静を装いながら、どことなく困惑していた。自分の年齢などあやふやだったが、この少女……恐らく同い年だ。
自分のような生き方を知らない少女。魔法を知っていても実践を積んでいない少女。背中に感じる勘違いの尊敬の眼差しにアイトは眉をひそめていた。こういうのは慣れないものだ。
二人分の草を踏む音が段々大きくなってくる。轟音の反響ももう聞こえないし、虫のはためきや鳥のさえずりが耳に届く。突き刺さるような悪意ももう、感じない。難は逃れたとアイトは息を吐いた。
「どうもありがとう」
唐突に少女が語りかけてきた。片方で繋いでいた手を両手で強く握り締めて、真摯にこちらを見つめている。
「助けてくれたんでしょう?どうしてここに人がいるのかわからないけど……それはもうどうでもいいことよね」
お前の作った蔦を勝手に使わせてもらったんだけどな、と脳裏に過ぎる。ここで言うのは余計な気がして口をつぐむ。
「それでね、冒険者さん?あなたがどこに行くのかわからないけれど、良ければ私を連れて行ってくれない?厚かましいとは思うけどここがどこなのかわからなくって帰れないし……またあの黒い騎士に出会うのは嫌だわ」
「……フララーは植物の声が聞けると聞いたが、それで町には帰れないのか」
「……碧光の森の植物は皆無口よ。襲撃のこともあって尚更心を閉ざしてしまってる、だから、その……」
少女は表情を曇らせて言葉を淀ませた。ここで一人置いていかれるのは死活問題なのだろう。自分ならそんなこと思いもしないとアイトは考えるが、この少女はそうもいかないのだ。羨望すらしたことのない、ごく普通の生活をして、平凡に暮らしてきたこの少女は。
「傍にいてくれれば、俺は人一人くらい守れる」
芽を出した沈黙をそっと摘み取るようにアイトが少女に提案する。
「護衛の仕事もしたことがあるからな。だが目の届くところにいなければ保障はしない」
「あなたとっても頼もしいのね!」
少女は屈託無く笑うと姿勢をピンと正し、胸に手を当ててアイトにまっすぐ自身を向けた。
「あたしチャロって言うの、よろしくね」
「ああ、……俺はアイト、よろしく」
チャロと名乗った少女は何故だかとても嬉しそうで、頭に飾ったオレンジの花が喜びで香りを良くしている。薄手のワンピースなのが心配だなとアイトは思ったが、それでも重大なことにはならないだろう。すぐにスティレットの二本目"探索"を取り出し、目的地の名前を告げる。するとその細い切っ先は斜め後ろを指し示しゆっくり、浮遊しながら突き進んでいった。ドリアドはあちらのようだ。アイトはチャロに行くぞと指示すると、彼女は微笑んで頷いた。
0コメント