chaloite-1
星クジラ中部、商業都市バルジ。この町の技術者たちの腕が良いことが評判でフウェイルの経済は3割ここで回っている、らしい。職業を持っている以上関係が無いことでは無いが、人の行き交う大通りを少々苦い顔をして歩く青年には、どうにも遠い話に思えていた。
彼はマーチャー、いわゆる便利屋であり、実に様々な仕事を請け負って生計を立てている仕事ぶりは至って真面目。悪事には一切手を貸さないことが唯一の信条だろうか。コミュニケーションが苦手なのが自他共に認める苦悩ではあるが、そのお陰で私情を持ち込むことも無い。有能と堅実が見込まれて、加えて珍しい容姿で、"バルジのマーチャー"と言えば同職の者なら難なく彼を思い出すのだろう。群青色の瞳は左のほうだけ星を煌かせて明るかった。それから、稀に感情が昂ったときに散る火花。彼の生まれを、彼自身は知らない。知っている人を探そうと思ったこともない。つまるところ孤児院で幼少期を過ごした彼は両親の存在を知らないのだが、片方がどのような人種であったかはわかっている。彼には確かにスティエの血が特徴的に流れている。幸か、不幸か。
「アイト」
その青年の名前を黒硝子の眼鏡をかけた男が呼ぶ。喧騒に消えるかもしれない程度の声量で呼ぶ。
……馴染み深い男に呼ばれてここへやってきたのだったな。他人を避けながらそちらへ足を進める。十中八九、仕事の仲介をしにきたのだろう。そしてその仕事は現在フウェイル全土が抱えている問題に関わっているに違いなかった。どこもかしこも通り過ぎれば、口先で不安を唱えた人々がいた。
事の始まりは砂クジラの砂漠に集落を持つ少数民族が難民として保護されたことだとされている。難民は「黒い風が我々に災いをもたらした」などと不吉な伝承を語るばかりで、恐怖に囚われていたこともあって話しにならず、仕方なく集落の状態を確認しに行けば正に何も無かったと言う他のない状態だったという。
何も無かった。彼らが住んでいたという証は何もかも、砂漠の中に残骸が埋もれているばかりで完全に失せてしまっていた。さらに災厄は続く、小さな村や町が突如として襲撃されて、生活を維持できないほどに破壊されていく。時にはクジラが震え地鳴りが起きるほど深い傷を土地に残され、ついには大都市の一部を吹き飛ばされるといった事態に誰もが無視出来なくなった。各クジラの水源で政治を行う者たちはこの事件の解決を優先することを決め、復興に金と労力をつぎ込むことになったのである。最も、予測の出来ない敵の来襲と圧倒的な魔力に、ひたすら後手に回るしかないのが現状だったが。
「それでも壊されたものは直していかないといけないし、恐ろしい目にあった人は救われないといけないしね」
黒硝子の下で慈愛に満ちた目が蝋で封された手紙をしばらく眺める。男の名前を、ライチと言った。芝居がかったような動作がいつ終わるのか知れたものではなかったのでアイトは手を差し出して、それを強請る。
「本を正せば国絡みの依頼だ、ちょっとしたコネもあってさ、わざわざ仕事貰ってきたんだぜ」
ライチは情報や仲介に特化した商人だ。なにも、物を売って損得勘定するだけがビジネスではない。話を見極め人との縁を切り盛りするのも営みの一つだ。つまり彼は情報屋である。
「復興のための移動手段として"転送装置"が採用されて、フウェイル全土に設置されることになったんだ」
「ああ、あの円盤状の。工場が忙しそうだったのはそのせいか?」
「たぶんそうじゃないかな。都市に一つずつとなれば大量に必要になってくるさ」
かさり、紙のこすれる音からインクの香りが立ち上がった。形式的な依頼文と報酬が一枚目、転送装置の説明と簡易な地図が二枚目、弟から兄への個人的な言伝が三枚目。
「ライチ、これはお前にだ」
「なんだ一緒に入れてたのか、悪かったな」
なるほどちょっとしたコネというのは弟のことか。アイトは理解すると僅かに目を細めた。ライチは家族からの手紙を汚さないようにしまい、さて、と仕事の話に向き直した。アイトも今紹介された仕事について考え込む。内容は簡単で、転送装置を然るべき場所に設置するというものだった。問題は場所が砂クジラであることだ。
「……転送装置は、まだ砂クジラには無いんだよな」
「バルジから設計図が届いたのが三ヶ月前。砂クジラで作り始めて、最近実用できるものが完成した」
「それを向こうで受け取って指定箇所に設置か」
「大陸予報じゃ花クジラと砂クジラがここ三日で接近するらしいぞ」
花クジラには転送装置があることをアイトは知っている。何故ならば数年前から転送装置の仮運転はバルジと花クジラ・ルドベキアで行われていたからだ。この世界は大陸が自由に移動する一匹のクジラであるがためにクジラ毎の繋がりが少ない。それでも星クジラと花クジラの都市は出来る限り交流を重ね親睦を深めて来たため、移動しやすくなる技術は喜ばれた。
「正確に言えば、ドリアド王国から砂クジラが目視できることが確認されてる。そこから飛行船で行けるさ」
報酬を見る限り移動に必須だと思われる金を差し引いても余るほど、断る理由も見当たらない。大体コネと言っているくらいだから断れば流れて二度とお目にかかれないかもしれない。深く頷いて文字からライチに視線を移動させると、黒硝子で隠し切れない屈託の無い笑顔が商談成立を喜んでいた。最初、これがどうにも苦手だった。情報屋らしくなかったので、疑う証拠こそないが信じていいものかと思った。
「とりあえずレイシに会いに行ってくれ、そしたら俺にも金が入って助かる」
「わかってる」
相変わらず頼もしいな、じゃあよろしく。そう言って去る背中を人ごみに消えるまで見届けたりはしない。そんなことはしなくても良い。彼には彼のやるべきことがあって自分にも今、やるべきことがある。ライチが信頼出来る男だと今の自分なら確かに思える。彼は良い仕事仲間だと。
間借りしている部屋に一旦戻り、大抵起こり得る事態を見越してウェストバッグに道具を詰める。ドリアド王国に行くには碧光の森という場所を通らなければならない。魔力の影響が強い区域では危険も多いだろう。その先の砂クジラは更に過酷な環境だ。指定箇所は砂漠より南方ではあるが町からは離れている。アイトは暫し手持ちの武器を眺めてからマインゴーシュとワンドを忍ばせることにした。
フィンの小楯。ある英雄の伝説を模倣した受け流しのための短剣で、これと同じ用途の武器は一応持っているのがセオリーというものであった。ただ、戦力を売る者なら使い慣れているかもしれないが、アイト自身はあまり使ったことが無い。マインゴーシュを使うほど近距離で敵を対面することが戦法上少ないためだ。だからこれは、どうしても間合いを取れないときに使う。
ヘレナ・ルイゼット。かつて共に依頼をこなしていた変わり者の男が、まだ幼かった自分に与えたものだ。相当古いが仕舞い込んであるせいで状態は良かった。一見深い色をした石の杖であるが、魔力を込めると先端から火の玉が放射される。遺跡に眠っていた骨董品であり戦利品として頂戴してきたものだと男は言っていた。持って行こうと思ったのは……砂クジラが、彼と出会った場所だったからだろうか。親しい人間が少なくとも思い出は残るものだ。そういえばこのワンドは役に立っていた気がするし、お守り、として。深く考えるのは止めた。再会はあまり望んでいないが、まだ彼は伝説荒らしをしているのだろうか。
薬草を編みこんだ布と魔星石を漬けた雫、日持ちのする食料あたりは遠出の基本である。それらも当然の量を詰め込んだ。最初と最後に愛用の武器を確かめる。
七王国、今は亡き王達の領地から産出された素材で作られた七本のスティレット。鍛冶師が丹念に作りあげたそれはそれぞれに魔法が仕掛けられていて、主に使う三本目には"返還"が備わっている。過去に使っていたものが壊れたときにそこそこ大金を払い購入した品で、間違いなく上等な武器だ。
以上の商売道具を持ち、アイトは部屋を空ける。
バルジの町は訪れたときと変わらず人々が忙しなく歩いていて、声が大きくて、賑やかしい。自分と同じように仕事をしているほうが落ち着くような人間が多いのだ。だからこの町に身を置いた。
さて例の転送装置、職人の話ではバレナーラと言い、「クジラの翼」を意味しているのだと暇潰しに教えてもらった。バルジ北東の工業地帯から一番近い広場にそれは設置してある。成功品第一号だ。大きさは一人分の足が乗る程度で、重量を認識すると起動して半径2mに魔方陣を広げる。そして装置前面に浮かぶ魔方陣を操作し転送先を選択する。広がった魔方陣内の物は全て送られる仕組みだ。なので転送装置は周囲から隔離するように、更にここは人通りも多いため事故が起こらないようにドームも設けられている。中に入れば喧騒は壁一枚向こうに追いやられてしまう。利用を待つ人も、今の時間帯ではいないようだ。
アイトはドームの中に入る。何回か使ったことはあるが魔方陣なんて頭の良いものはこの先も器用に扱えそうにない。円盤に足をかければドーム内の地面に幾何学模様が浮かび上がりゆっくり、ゆっくりと時計回りする。目の前にはクジラを見上げたような図面が浮かび所々に印がついていた。これは転送装置が設置してある印だ。ルドベキアの碧光の森が一番近い場所。となれば、ここだろうか、差し込むように指で触れれば魔方陣がその姿を変える。クジラ模様は頭上へ、地面の紋様はアイトを中心に包み込み球状に、瞬く間に収縮していく。あと何秒もすれば花クジラに辿り着くことだろう。植物に囲まれた甘い空気の花クジラへ。
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